フィリピンポピュラーミュージックの変遷2:OPM誕生前夜、1950年代~1960年代

\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\この記事は現在製作途中です\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
随時修正・加筆していきます。

現在のフィリピンポップス(OPM)は1970年代にマニラサウンドと呼ばれていたころから形を整えてきましたが、それ以前からも世界のポップス、大衆文化に連動する形で豊かな若者文化を育んできました。

20世紀のアメリカが大きな影響を及ぼしたものの一つとて挙げられるのがジャズをはじめとしたエンターテインメント性の高い音楽と、それを楽しむ場(劇場・ダンスホール・ナイトクラブなど)が軍隊を含む在比アメリカ人(の求め)によってもたらされたことでしょう。太平洋戦争前からアールデコ様式の映画館や劇場がビノンド(現在のチャイナタウンに隣接する地域)を中心に数多く建設され(その殆どがスペインをはじめとするヨーロッパで学んだフィリピン人建築家によるものでした)、最新のハリウッド映画の上映やボードヴィルショーが繰り広げられ、ショーに出演するフィリピン人ミュージシャンもフィリピン伝統のKundimanと共にジャズやブルースを披露していました。

そして何より大きかったのはロックンロールの登場でしょう。
1950年代にアメリカのミュージシャンによって演奏されるようになったロックンロールは瞬く間にフィリピンにも上陸していきます。
実質上アメリカの植民地支配の延長線上にあったフィリピンでは、アメリカ人ミュージシャンによる演奏も行われていたでしょうし、観客となった大勢の在比アメリカ人がその音楽を楽しんでいる様子(ライフスタイル)も目の当たりにしたことでしょう。フィリピンはミュージシャンだけでなく、それを楽しむ一般市民も含めロックンロールの直接の薫陶を受けた数少ない国の一つと言えるのではないでしょうか。

1950~60年代は音楽そのものやミュージシャンに限らず、音楽を取り巻く環境も変化していきます。ラジオでは新しい音楽を紹介する意欲的な局が開局、フィリピンポップスの殿堂アラネタコロシアムのオープン、現在も多くの音楽番組を放映しているフラッグシップテレビ局ABS-CBN(50年代)やGMAテレビ(60年代)が本放送を開始するなど70年代以降フィリピンポップスが開花するための「ショービズインフラ」が形を整えていきます。

また、この時代は日本の音楽シーンも内容の濃い興味深い活動をしていた時期でもありました。
日本へ出稼ぎに来てプレイしていたアーティスト達も日本のミュージシャン達と渡り合いながら腕を磨き、経験をつみ、また新たなコネクションのネットワークを広げていきます。その中にはやがてフィリピンの音楽シーンにとって重要な存在となるアーティストも含まれています。

海を渡った最新大衆音楽

16世紀から19世紀末までの約400年間スペインの支配化に、そして20世紀に入りアメリカの植民地支配を受けていたフィリピンは、しばしば語られる抑圧の歴史とは別に、その時代時代に最も勢いがあり、影響力があった国の人たちと交流していたとも言え、アジア諸国の中で、最先端の大衆文化を真っ先に取り入れていた国だったと考えられるでしょう。

ガレオン船
ガレオン船

19世紀以前、スペインの植民地だったフィリピンと南米アカプルコを結ぶガレオン貿易が盛んになり、香料や各種物資などの交易と共に南米の大衆文化も船員達によってフィリピンにもたらされました。
今ではフィリピンの伝統大衆音楽となっている「Harana」「Kundiman」もこの頃の南米音楽の影響を多分に受けています。

そして1900年代に入り、世界の主だった都市を結ぶ外航客船が旅の花形になると、アメリカの植民地だったフィリピンからも大勢の優秀な音楽家がそれに楽団員として乗り組み、世界中の音楽や最新の流行を吸収します。それ以前からガレオン船貿易で南米の優れた音楽に触れていたフィリピンですが、アメリカはもとより、カリブ海諸国やヨーロッパの最新の大衆音楽もこの頃船の楽団員によってフィリピン国内にもたらされたと思われます。

タイタニック号

日本でも既にポピュラーなハワイアンですが、ハワイアンが最初に日本にもたらされたとき、それは土着のハワイアンミュージシャンによるものだったのか・・・もしかしたら横浜、神戸に就航していた世界航路の外航客船に乗り込んでいたフィリピン人ミュージシャンによるものだったのでは・・・という興味深い考察もあります。

また、現在のOPMバンド・シンガーにも言えることですが、ロック系のアーティストでもアップテンポのダンスビートや(70年代のディスコで大流行したチークタイム用の甘いバラードなど)ダンサブルなリズムを持つバラードも得意としているグループが多いことに気づきます。
これは、エンターテインメント性の高い音楽が求められる生演奏のレストランやクラブが多いことも理由の一つであると思われますが、米軍の駐留によりアフリカ系アメリカ人もフィリピンに滞在、豊かな感性を持った彼らがジャズはもちろん、ブルースやリズムアンドブルース、更にはソウルミュージックやディスコサウンドを持ち込み、フィリピン人ミュージシャンに大きな影響を与えたのでは・・・と考えられます。
戦前の植民地時代、進出してきたのは企業主や投資家などのアッパークラスだけでなく、従業員などとして移住してきたアメリカ人の中にはアフリカ系の人々も多く含まれていたでしょうし、大戦後の冷戦構造に伴うベトナム戦争などアジア地域の紛争のため米軍が常駐するようになってからはその数もさらに増えてきたと思われます。

ジャズやブルースなどの音楽に加え、1900年代にはミンストレルショーやヴォードヴィルショーなど新しいエンターテインメントのスタイルも持ち込まれました。

1930年代のヴォードヴィルショーのポスター
Clover Theatherのヴォードヴィルショーのポスター(1930年代)
アメリカンエンターテインメントの影響を受け、また在比アメリカ人向けの娯楽施設として1900年代には多くの劇場が建てられ、そこでは映画上映に加えて歌や芝居のショーなどが披露されるヴォードヴィルショー(英語ではVaudevilleと綴られますが、フィリピン語ではBodabilと書かれることもあります)が盛んに行われました。
日本が占領していた1942年から1945年まではハリウッド映画の上映は禁止されたものの、歌や寸劇を中心としたヴォードヴィルショーが継続して行われていました。
フィリピン伝統のKundimanを歌うシンガーたちもこぞってこのヴォードヴィルショーに出演、ジャズシンガーやロックンロールシンガー達と共にしのぎを削っていました。

ロックンロールの時代
太平洋戦争から5年が過ぎた1950年代、ようやく自国の安定と将来の発展のために動き出したフィリピンですが、まだまだその爪跡は大きく残っている部分もあり、また世界的には東西の冷戦構造の悪化により各地で紛争が巻き起こった時代、実質上アメリカの庇護の下にあったフィリピンでは政治的にも文化的にもアメリカの影響を色濃く受けた1950年代となります。
そんな中、20世紀最大のポップニューウェーブ、ロックンロールがフィリピンにもやってきます。
大音量で夜の酒場で、踊りながら楽しむロックンロールは戦争から開放された気分と豊かなアメリカのライフスタイルを体験できることも相まってフィリピンでも急速に広まっていきます。
それだけではなく、フィリピン特にマニラを含むルソン島の要所要所には米軍が駐留、アメリカ式の娯楽施設(ナイトクラブなど)もその求めに応じるがままに各所に作られていきます。そこにはロックンロールをはじめとする様々な最新のエンターテインメントが持ち込まれ、フィリピンのミュージシャンもこぞって楽団員として従事、自身の腕を磨きつつそれら最新の音楽を身に付けていくことになります。

Bobby Gonzales
Bobby Gonzales
■ Bobby Gonzales
この時代を代表するスターシンガーの一人として現在も取り上げられることの多いのが「Bobby Gonzales」です。
彼は最初に出稼ぎ労働者(OFW:Overseas Filipino Worker)として海外で活動したミュージシャンの草分け的存在として知られていて、ラスベガス、アトランティックシティなどでも公演を行い、フィリピン人アーティストを「世界のエンターテイナー」として知らしめる重要な役割を演じました。(Bobbyはマニラを訪れていた人気女優Shirley MacLaineのスポンサーに招待される形で渡米、その後Katy de la Cruz, Diomedes Maturan, Baby Aguilar, the Reycard Duetら当時のフィリピンのトップスターらがあいつでラスベガスで公演を行っています。)
彼の作品を聴いていると、ジャンプナンバーはロックンロールに、バラードナンバーはKundimanに通じるもので、過渡期の混迷の中で活躍していたアーティストの特徴を見出すことができます。

clover theater
clover theater
彼が出演していたマニラのClover Theaterは映画館として建てられたようですが、むしろフィリピン国内の指折りのパフォーマーのエンターテインメントショーが行われていることで知られるようになり、Bobby Gonzalesはもちろん、DolphyやPugo and Tugo、Katy dela Cruzら当時のトップスターの公演の場となりました。
そこでBobby Gonzalesは25~40曲のステージを1日3回、毎日(週7日)こなしていたようで、その人気振りがうかがえます。

Eddie Mesa
Eddie Mesa
この時期、Bobby Gonzalesと共に人気を博していたのがEddie Mesa(シンガー・俳優)で、その歌唱スタイルから「フィリピンのエルビスプレスリー(Elvis Presley of the Philippines)と呼ばれ、ティーンエージャーのアイドル的存在となっていました。彼は現在牧師としてアメリカに在住しています。彼の本名はEduardo Eigenmannといい、現在(2014年)フィリピンの映画・テレビドラマで活躍している人気女優Andi Eigenmannは彼の孫です。

この時代は、Kundimanシンガーだけでなく、アメリカンポップスの影響を受けたポピュラーシンガーもレコードデビューした時代でした。

■ Pilita Corrales

Pilita Corrales
Pilita Corrales
Pilita Corralesはセブ島出身、歌手デビューはフィリピンではなくオーストラリアで、1958年にファーストシングルCome Closer to Meをレコーディングしたことからはじまります。
この曲はオーストラリアで大ヒットとなり、オーストラリア南部メルボルンで知らぬ人はいない人気者になります。また、彼女はオーストラリアのポップチャートで最初に1位を獲得した女性シンガーとして語り継がれています。
Pilitaは1963年にフィリピンに帰国、Kundimanからポピュラーソング、自身がセブ出身と言うこともありビサヤ地方の歌などもレコーディング、現在も現役で活躍しているベテランシンガーです。
また、彼女がレコーディングしたKundimanの名曲Dahil Sa’Iyoはマルコス政権時代にイメルダ夫人のテーマソングになったこともあり、他の(シンガーの)バージョンと共にフィリピンでもっとも良く聴くテイクの一つとなっています。

■ Bert Nievera

Bert Nievera
Bert Nievera

1958年には現在「コンサートキング」として人気のベテランシンガーMartin Nieveraの父「Bert Nievera」がデビューしています。
フィリピン北部の都市バギオで生まれ育った彼ですが、1950年代後半から1960年代初頭までフィリピン各地のナイトクラブに出演した後、1966年に渡米します。そこで当時の人気ボーカルグループだった ‘Society of Seven'(60年代に香港で結成されたアメリカ系グループでアメリカ本土・ハワイなどで現在も活動中)に加入、リードボーカルも努めていました。
彼はジョニーマティスやフランクシナトラなどアメリカのポピュラーソングの影響を受けたシンガーで、ステージではアメリカンポップヒットをレパートリーとして持っていましたが、1978年には、アメリカナイズされたシンガーの中では最初に全曲タガログ語だけで作られたアルバム ‘Sumasainyo, Bert Nievera (Vicor music)’をリリースしたシンガーとしても知られています。

Freddie Aguilar
Freddie Aguilar
■ Freddie Aguilar
おそらくフィリピン人シンガーでもっとも日本人によく知られているのがフォークシンガー Freddie Aguilar でしょう。
1978年のAnakの大ヒットによりフィリピン国内はもちろん世界各国にその名をとどろかせる事になります。日本でも加藤登紀子さん、杉田二郎さんがAnak(息子)に日本語の訳詞をつけてカバーしています。
その後1986年のエドサ革命のテーマソングともなったBayan Ko、マビニ通り(マニラの歓楽街)で働く女性の悲哀を歌ったMagdalenaなどのヒット曲をリリースしますが、レコードデビューは1967年のアルバムNgayon。このアルバムはリリース当時は大きなヒットにはならず、彼の作品がデビュー作まで遡って広く音楽ファンの注目を浴びるには78年のAnakの大ヒットを待たねばなりませんでした。

Jose Mari Chan
Jose Mari Chan
■ Jose Mari Chan
コンポーザーとして、アレンジャーとして海外でも評価されているJose Mari Chanは1966年にABS-CBNのテレビショーへの出演がショービズ界へのデビューとなります。
1967年にファーストシングル ‘Afterglow’をレコーディング、Cliff Richardを彷彿させるスムーズな歌声と美しいメロディのこの曲はビートルズやビーチボーイズがフィリピン国内で全盛の人気を誇っている中、それらを押しのけるビッグヒットとなります。1969年にはデビューアルバム’Deep in My Heart’をリリース。1973年には来日も果たしていますが、1975年アメリカへ移住してしまいます。
アメリカ移住までの数年間で20曲以上の映画・ドラマのテーマソングをヒットさせたJose Mari Chanは渡米中も音楽活動を行っていましたが、1986年に帰国後は更に精力的に活動を再開。大ヒット曲’Please Be Careful With My Heart’や1990年にはリリース後20年以上経過した今でも毎年シーズンになるとアルバムトップ10ヒットに顔を出すモンスターヒットアルバム’Christmas in Our Hearts’をリリース。現在もニューアルバムをリリースしています。

Jose Mari Chanは1945年、ビサヤ地方はパナイ島の都市Ilo Iloでサトウキビ農園を営む裕福な家に生まれました。1975年から1986年までのアメリカ移住は戒厳令発布に伴う政府による事業の接収が原因だったと考えられます。


Nora Aunor (ノラ・オノー(ル))
Nora Aunor (ノラ・オノー(ル))
■ Nora Aunor
Nora Aunorは1953年、ビコール地方に生まれました。60年代から100本以上の映画に出演し、数々の賞を受賞しているため、映画女優としてその名を知られていますが、ショービズ界へのデビューはシンガーとして新人発掘コンテストへの出場がきっかけでした。
Noraは地元のアマチュアコンテストで1位に輝いた後、全国規模のコンテスト’Tawag ng Tanghalan’に出場、初回は入賞を逃しますが翌年に再チャレンジ、見事ファイナルに進出すると1968に、Alpha recordsからデビューアルバムをリリース(同じ年にVillar recordsからもアルバムがリリースされています)、その後1979年までの約10年間に23枚のスタジオアルバムをレコーディングしています。
デビュー当初は英語曲(カバー曲)が殆どでしたが次第にフィリピンのオリジナル曲もレコーディングしています。

日本への出稼ぎミュージシャンの活躍もこの頃からはじまります。
後述するデ・スーナーズをはじめとする、ナイトクラブやダンスホール(ディスコ)などで活躍したバンドから、ピアノラウンジで歌う弾き語りのソロミュージシャンまで多くのフィリピン人が日本のエンターテインメントシーンを彩りました。
また、フィリピンでも伝説的な存在となっている60~70年代の人気シンガーEddie Peregrinaも自身のバンド「The Blinkers」を率い日本で活動しています。
更には後にフィリピンのミュージックシーンで最も重要な存在となるメンバーが在籍していたバンド「Zero History」も多くのフィリピン人出稼ぎミュージシャンの一つとして活動していました。

■ D’ Swooners ~日本で定期演奏したフィリピン人バンドの草分け

D'Swooners
D’Swooners
日本へ渡航して定期演奏をしたフィリピン人ミュージシャンの草分け的存在として語られているのが「デ・スーナーズ(D’ Swooners)」です。
デ・スーナーズは60年代前半にフィリピンで結成されたバンドで、香港のナイトクラブで演奏していた際に、偶然香港に仕事で訪れた加山雄三氏と出会い彼のプロモートで1968年に日本に来日、加山氏がオーナーだったホテル「パシフィックホテル茅ヶ崎」で定期出演する傍ら日本のレコード会社から数枚のシングル・アルバムをリリースしています。
折りしも60年代後半は日本ではGS(グループサウンズ)ブーム、その後に続くディスコブームと相まってフィリピン人アーティストの来日がこのころから盛んになっていきます。
高い演奏技術を持っていた彼らはその後、赤坂MUGENなど70年代に一世を風靡したライブディスコの専属バンドとして活躍します。

■ Eddie Perengina ~日本とフィリピンを股にかけて活躍した伝説のシンガー

Eddie Peregrina
Eddie Peregrina
Eddie Peregrinaは1944年生まれで60年代後半から70年代にかけて活躍したシンガー。
歌唱スタイルは高音を得意とするハイテナーで、ランクシナトラなど、低音でスムーズに歌う歌手が人気だった当時フのフィリピンでは異色の存在だったようですが、現在のポップシーンのスタイルを見ると正に彼がイノベーターだったことがわかります。
Bobbyはフィリピンで「ジュークボックスキング(Jukebox King)」と呼ばれ、女優として人気だったNora Aunorらとラジオ番組でも共演、不動の人気を誇っていました。
彼は自身のバンド「The Blinkers」を率いて日本で活動していた時期があり、アルバムには数曲の日本の曲をレコーディングしています。
活動期間が短いEddie(1977年に事故死(32歳)ですが、国内でのヒットや多彩な活動歴を考えると日本とフィリピンを股にかけて活躍していたのではと思われます。
有名なレコーディングに「藤けいこ / 圭子の夢は夜開く」がありますが、この曲を英語・タガログ語の両方の歌詞をつけてレコーディングしているところを見るとよほどお気に入りだったのでしょう、このほかにも「ここに幸あり」など日本の古いヒット曲もレコーディングしています。
また、事故死の数年前はタガログ語曲をレコーディングしていますが、60年代後半のデビューから70年代中盤までは殆どが英語曲で、6/8拍子のロックバラード的な作品が中心となっていますのでここでもロカビリーなどアメリカのポピュラーミュージックやビートルズを皮切りにフィリピンにも浸透していった所謂「ブリティッシュインヴェイジョン」の影響を見て取れます。

■ Zero History ~やがてフィリピンロックシーンを代表する偉大なロックアイコンとなるバンドのメンバーが在籍

Zero History band
Zero History band
Zero History bandは60年代後半に来日して活動していたブルースロックバンドで、サイケデリックムーブメントにも乗り、人気バンドの一つとして東京や横浜のディスコやナイトクラブで演奏していました。
やがてメンバーの一人でドラマー・ボーカルのJoey Smithが日本のロックギタリスト陳信輝(SHINKI CHEN)に誘われてバンドを結成、「SPEED, GLUE & SHINKI」名義でアルバムをリリースします。このアルバムは売り上げ的にはヒットとならず、Joeyの素行問題なども絡んでバンドは解散、程なくJoeyはフィリピンへ帰国します。そして一足早くフィリピンへ帰国していたZero HistoryのギタリストWally Gonzalesが組んでいたバンドに参加することになりますが、このバンドがやがてピノイロックの最も重要なアイコンバンドとなるとは本人達も予想していなかったことでしょう。
(※Zero History~その後のフィリピンでのメンバーの活躍については次章「フィリピンポピュラーミュージックの変遷3:ピノイロックの台頭とマルコス時代 1960~1970年代」に近日アップいたします。)


日本だけでなく、欧米・アジア各国へもフィリピンのミュージシャンは活動の場を求めて渡航するようになります。
中には現地のバンドそこのけの人気を博したグループも多く存在したようです。

(Cynthia Law and) D' Starlights
(Cynthia Law and) D’ Starlights
(Cynthia Law and) D’ Starlightsは1960年代後半にシンガポールのクラブシーンで活躍したグループで、他のシンガポールのバンド同様、アメリカンポップスに影響を受けたサウンドでしたが、それまでギター・ベース・ドラムスといった編成のバンドが主流だったところにブラスセクションやキーボードを導入た新しいスタイルのバンドでした。


元祖マルチタレント Ramon “RJ” Jacintoの登場

Ramon "RJ" Jacinto and the Riots (白のジャケットがRamon "RJ" Jacinto)
Ramon “RJ” Jacinto and the Riots
(白のジャケットがRamon “RJ” Jacinto)

1950年代のロックンロールの誕生、1960年代に入りエレクトリック楽器の普及とそれに伴うVenturesなどのインストバンドの隆盛、そして英国勢の巻き返し(British Invension)など世界の音楽シーンの大きな動きを取り入れつつ自らの音楽性に磨きをかけていたフィリピンポピュラーミュージックシーンに、国内からも後のシーンの発展に大きく関与する人物 Ramon “RJ” Jacinto が登場します。
RJはマニラの名門Ateneo De Manila大学で経済学の学位を取得、その後同じくマニラ最古の伝統を誇るSto. Thomas大学で法学を学びますが、それと並行し、若干15歳(1960年)にしてミュージックプロモーション会社「RJ Enterprises」を立ち上げます。また、ミュージシャンとしても自身のバンド “RJ and the Riots”を結成、大学やローカルのナイトクラブなどで演奏活動をはじめます。

■ミュージシャン・ギタープレイヤー Ramon “RJ” Jacinto
RJ and the RiotsはAteneo De Manilaのクラスメートと共に結成したバンドで、1960年にAteneo De Manila高校のクリスマスパーティで初めてのライブパフォーマンスを行っています。
このバンドはベンチャーズスタイルのオリジナル曲を多く演奏、Weightlessというビッグヒットも放っています。

1972年の戒厳令の発令によりアメリカに亡命、14年間の亡命生活の後フィリピンへ戻ったRJは新しいライブハウスやギターショップなどを立ち上げ事業を成功させていきますが、解散状態だったRiotsも新メンバーが加入した “New Riots”として活動再開、現在も自身が経営するライブハウス “RJ Bistro”などで定期的にステージに立っています。
2005年にはマニラシンフォニーオーケストラと共演でライブレコーディングも行うなど精力的なミュージシャン活動を展開、
2012年にはミュージシャン・実業家としての長い活動の中で培った膨大な人脈の集大成とも言うべき画期的なデュエットアルバム
Ramon “RJ” Jacinto / RJ Duets」をリリースしました。

Ramon "RJ" Jacinto / RJ Duets 2CD
Ramon “RJ” Jacinto / RJ Duets 2CD
このアルバムは内外のヒット曲24曲を納めたカバーアルバムですが、RJはリードギターとボーカルを担当しつつ、ゲストにそれらのヒット曲のオリジナルメンバーやフィリピンの若手ミュージシャンを迎えて共演、自身のヒット曲のリメイクもフィリピンのトップアーティストと共にリメイクしています。


■ビジネスマン Ramon “RJ” Jacinto
ミュージシャンとしても数々の業績があるRJですが、フィリピンのポップス界に及ぼした影響はなんといっても彼のビジネスマンとしての側面によるものが大きかったと言えるでしょう。
音楽と事業を結びつけ産業として成り立たせることを夢見ていたRJは1960年、若干15歳にして「RJ Enterprise」を立ち上げます。
この会社は音楽のプロデュースとレコーディングを主な業務としている企業で、フィリピンで初めてマルチトラックのレコーディング機材を導入、多くのミュージシャンや企業がこぞってそのスタジオを使うようになります。
そのわずか2年後、RJはいまではフィリピンの放送業界で伝説となっているラジオ局「DZRJ」を開局します。
この放送局は彼の友人、主に大学のクラスメートによって運営され、以前のフィリピンのエンターテインメント界になかった選曲とコンセプトで、それまで殆どオンエアされることの無かった様々なジャンルの音楽をフィリピンの若者向けに紹介しました。DZRJはフィリピンで初めてビートルズやヴェンチャーズ、ビーチボーイズなど海外のロックスターの曲をオンエアしたことでも知られてます。それだけでなく、DZRJはローカルアーティストのレコーディング作品も積極的にオンエアして彼らの活動を支援してきます。

ビジネスマンとして、ミュージシャンとして成功を収めるRJに転機が訪れるのは1972年の戒厳令の発令でした。
彼の父が営む鉄鋼会社「Iligan Integrated Steel Mills, Inc (RJ自身もその経営陣の一人として名を連ねています)」はもちろん、RJが運営するレコード会社「RJ Enterprise」、ラジオ局「DZRJ」の資産も軍により接収され、RJ一家は海外(アメリカ)への亡命を余儀なくされます。
亡命生活はEDSA革命でマルコス政権が倒れ、アキノ政権が発足する1986年までの14年間に及びますが、その間もRJはアメリカでフィリピン人の友人らとレコーディングを続け、秘密裡にディスクをフィリピンへ輸送、シングル「Muli」や「Don’t Let Go」などがフィリピンでもヒットしました。しかし、軍部の追及を逃れるためにそれらの作曲者名や演奏者名はクレジットされていませんでした。

1986年にJacinto一家はフィリピンへ戻ります。
RJの所有する「RJ Enterprise」、「DZRJ」も彼の元に戻り放送を再開、「DZRJ」を1950年代~70年代の音楽をオンエアするレトロウエーブのリーダーステーションとして再び多くのリスナーの支持を集めます。

DZRJ 810 AM - Voice Of The Philippines
DZRJ 810 AM – Voice Of The Philippines
「DZRJ」は再開後も地元アーティストの作品を積極的にオンエア、Maria Cafra、Juan Dela Cruz Band、Sampaguitaなど伝説のロックアイコンとなるアーティストも「DZRJ」の電波によってその音楽を広くフィリピンのリスナーに届けていました。
現在も「DZRJ」は名門AM局として存続、現在はリアルタイムニュースをメインに放送しています。

RJ 100.3 FM
RJ 100.3 FM
また、RJは音楽専門のFM局「RJ100.3FM」を開局しています。

RJの業績はラジオステーションにとどまらずローカルアーティストの演奏の場、音楽ファンの交流の場となるライブハウスの経営も見逃せません。

RJ Bistro - Rock 'n' Roll -
RJ Bistro – Rock ‘n’ Roll –
1986年当時、マニラの歓楽街ではピアノラウンジ・ディスコが主流で、フィリピンのライブバンドは活動と収入の場を求めて海外へ渡航することが多かった状況の中、RJはライブハウス・生バンドが出演するレストラン・ディスコを開店、地元のライブバンドを雇い入れ、彼らに資金面での援助をするだけでなく、音楽を通じて華やかなりし頃のマニラのナイトライフの再興を企画しました。
RJ Barというライブスペースも持っていましたが、現在はRJ Bistroがマカティシティの高級ホテル「Dusit Thani Manila」の地階で営業、RJ & the Riotsも定期出演しています。
現在マニラには多くのライブバンドを擁するライブハウス・ナイトクラブがありますが、その多くがアキノ政権後に創立されたもので、政治的抑圧からの開放がこうした動きを大きく後押ししたことは事実ですが、RJのアイデアもその営業スタイルには少なからず影響を与えたと思われます。

この他RJは自身のギター工房「RJ Guitar Center」も所有。

RJ Guitar Center
RJ Guitar Center
フェンダー・ギブソンなどの世界の一流品を扱いながら、一方で高品質なオリジナルギターを製作していることでも知られています。
現在マニラに14店舗の直営店、RJブランドのギターを扱う小売店はフィリピン国内に100以上あり、その人気ぶりがうかがえます。

■ビッグドームの完成

建設中のアラネタコロシアム
建設中のアラネタコロシアム

1960年代のアラネタコロシアム
1960年代のアラネタコロシアム
1960年には現在フィリピンで最も大きい屋内型多目的ホール「Araneta Coliseum」がCubao(Quezon City)に完成、現在もバスケットボールを中心とした各種スポーツイベントや内外のトップアーティストによるコンサートが行われています。
Araneta Coliseumは1957年着工、1958年竣工、1960年3月にボクシングのタイトルマッチが杮落としとして行われています。

ちなみに日本の多目的ホール日本武道館は1964年、東京オリンピックの会場として建設されています。

■ ABS-CBN(フィリピン民放大手)が本放送開始

ABS-CBN ロゴマーク (1967年~1972年)
ABS-CBN ロゴマーク
(1967年~1972年)
1953年10月23日、フィリピン初の民放テレビ局ABS(現ABS-CBN)が本放送を開始します。

ABS-CBNはアジア圏でも最も早くに本放送が開始された民放の一つ(日本では一足早くNHKが同年2月1日から本放送を開始)で1953年、アメリカ人技師 James Lindenbergが所有していた放送局BEC(Bolinao Electronics Corporation)をAntonio Quirino(キリノ元大統領の兄弟)が買い取り、局名をABS(Alto Broadcasting System)と改称して放送開始します。

1956年にはマニラの新聞’Manila Chronicle’紙のオーナー Eugenio Lopez, Srが放送局’CBN(Chronicle Broadcasting Network)’を設立します。
翌1957年にABSの株をAntonio Quirinoから秘密裡に買収したLopezは名称をABSの前身BEC(Bolinao Electronics Corporation)に戻して放映、Eugenio Lopez, Srは2つのテレビ局を所有し、実質上フィリピンのテレビ放映を独占する形となりました。

1960年代に入るとGMAなど新しいテレビ局が相次いで開設され、Lopezのテレビ業界の独占状態は終わりを告げます。そして1967年、CBNとABSは正式に経営統合、ABS-CBN(Alto Broadcasting System Chronicle Broadcasting Network)と現在の社名に改称しました。
この間、1966年にABS-CBNはカラー本放送を開始します。
戒厳令下ではマルコス政権に接収され、閉鎖されますが、1986年に放映を再開、現在もフィリピンのフラッグシップ局として放送を続けています。

■■1930年代~50年代に建設されたアールデコ様式のフィリピンの劇場
それらの多くは「Rizal Avenue」(フィリピンの英雄ホセリサール(Jose Rizal)にちなんで名づけられた通りの名前でキアポからカロオカンまでを結ぶ約7キロの大通り)に沿って建てられています。
Rizal Avenueの南端にはビノンド地区やチャイナタウンを含む当時のエンターテインメントの要所があります。
現在その多くは老朽化と維持費用の問題で解体または改装して別の目的(商店やホテルなど)として使用されています。

メトロポリタン劇場(1930年代)
メトロポリタン劇場(1930年代)

アベニューシアター
アベニューシアター
■Avenue Theater
1950年代建設/2006年解体


Bellevue Theater
ベルビューシアター
■Bellevue Theater
1933年建設/現存


キャピトルシアター
キャピトルシアター
■Capitol Theater
1935年建設/現存


クローバーシアター
クローバーシアター
■Clover Theater


エヴァーシアター跡
エヴァーシアター跡
■Ever Theater
1950年建設/現存(ホテルとして営業)

ガイアティシアター
ガイアティシアター
■Gaiety Theater
1935年建設/現存

アイデアルシアター
アイデアルシアター
■Ideal Theater
1933年建設/1970年代 解体

ライフシアター
ライフシアター
■Life Theater
1941年建設/ 現存

メトロポリタン劇場(1930年代)
メトロポリタンシアター
■Manila Metropolitan Theater
1931年建設/現存

スカーラシアター
スカーラシアター
■Scala Theater
1940年代後半の建設 / 現存

ステートシアター
ステートシアター
■State Theater
1930年代建設/2001年 解体