フィリピンポピュラーミュージックの変遷1:1950年代以前「Harana」と「Kundiman」
随時修正・加筆していきます。
フィリピンポピュラーミュージックの変遷として、1960年代以降、現在のOPM(オリジナルフィリピーノミュージック)が形を整える過程を考える時、1950年代以前、フィリピンがスペインの植民地だった19世紀にまで遡って、そのころ演奏され楽しまれていたフィリピンの大衆音楽を聴いてみるのも大切なことでは・・・と思います。
というのも、スペイン統治時代から脈々と続くその流れなしには現在の豊かなフィリピンミュージックシーンは無かったと思われますし、もしその流れが一時期を境に断絶してしまっていたとしたならば、それでも、その後の世界の動きに連動する形で何らかのポピュラーミュージックは出来上がっていたと考えられますが、それは現実に今聴くことができているOPMよりも貧弱で薄っぺらなものになっていたと想像されるからです。
19世紀から1950年代に流行した音楽と言えば、時代遅れのもの、懐古趣味的なものと捉えられがちですが、耳を傾けてみるとそこに現在のフィリピンポップスのエッセンスを見出す(聴き出す)ことが出来るのではないでしょうか。
Haranaとは英語のSerenadeに相当するフィリピンの音楽。
辞書に出てくるSerenadeの意味・位置づけと同じく、男性が想いを寄せる女性の前で、または家の前(彼女の部屋の下)でその思いを綴った歌詞をスローなメロディに乗せて歌ったもの。
画像でもわかるように、男性が数人の友人を引き連れ、彼らが奏でるギターやバイオリンなどの伴奏で女性への思いをうたい綴るというスタイルで、マニラやセブなどの都市部だけでなく、田舎の町や地方都市で盛んに行われ、非常に土着で個人的な意味合いの強かった音楽であったことが想像されます。
サウンド的にはスペインの影響を多分に受けた音楽で、スパニッシュタンゴやハバネラ(スペインの伝統音楽とされているが元々はフランスから中米へ、その後にスペインに伝わり広まったもの)のリズムを踏襲しています。
Kundimanは「Love Songs Of The Philippines」と呼ばれ、Harana同様スペイン統治時代から歌い継がれてきたラブソングです。
スムーズでスローなテンポ・メロディに恋の詩を乗せて歌われた音楽で、その起源は一説にはルソン島中部のBatangas(バタンガス)であったと言われています。
同じラブソングとして一時代を風靡した両者ですが、Kundimanは、報われない恋心を切々と歌詞に込めた哀愁漂うメロディが特徴で、男女の区別はありませんでした。また、Kundimanが演奏される(歌われる)場所として、個人的なシチュエーションというよりも、ピアノや弦楽器を備えた屋内や広場などで不特定多数の聴衆の前で披露されていました。
20世紀に入るとアメリカの植民地下、ジャズやブルースなどさまざまな音楽のエッセンスを取り込みながらKundimanはフィリピン大衆の日常の音楽として発展していきます。
KundimanとHaranaは共通する部分も多く、フィリピン国内でもしばし混同されます。
はっきりとジャンル分けを考えること自体は、音楽を楽しむ上で必ずしも必要なことではないと思いますが、特定の音楽にそれを表す言葉が与えられている以上、何らかの違いがそこにはあるはずですし、少なくとも当時(19世紀)オンタイムで演奏し、聴いていた(楽しんでいた)人たちはその違いを聞き分けていたと思われますので、あえてその違いを探ってみると・・・
まずHaranaの最もはっきりとした特徴は2/4拍子で演奏されていたことです。これは前にも書いたとおりハバネラという南米経由でスペインから持ち込まれた音楽に影響を受けたリズムです。そしてHaranaのアレンジはシンプルで、まずギターのイントロから入り、テーマを2回繰り返したあと短いギターのソロが続きます。そしてテーマへ戻り曲の終わりまで繰り返されます。
Kundimanは1/3拍子で作られ、最初は物悲しい短調のメロディから入り、後半で長調に転調してその明るく開放的なメロディを繰り返して終わります。Haranaはその歌詞にもその特徴を見出すことができます。不特定多数の聴衆の前よりも、個人的に想いを寄せる相手にその想いを歌いかけるHaranaは「Dungawin mo hirang(look out the window, my beloved)」、「Natutulog ka na ba, sinta (are you sleeping, my lover)」など対象になる女性に向かって呼びかけるようなフレーズが歌の出だしに用いられることがしばしばあります。
これに対しKundimanは男女どちらもに共通する異性への想いが題材となっていることに加え、男女間の恋心だけでなく祖国や自然を愛する気持ちも歌詞に込められた作品が数多く存在しています。
そして当時のHaranaはフィリピノ語でももっとも古く純粋な単語が用いられていたようです。それは今では日常のではほとんど使われなくなったもので、音楽的にはスペインの影響を受けたものだったにもかかわらず、歌詞にはスペイン語の単語やその影響を多分に受けている言葉が使われることは稀なようです。Haranaに使われる楽器が主にギター1本、もしくはギターとバイオリンなどシンプルな構成の伴奏が多かったのに対しKundimanはギターに加え、弦楽器のアンサンブルやピアノ、20世紀以降は管楽器も用いられるようになりました。
Haranaはギターが最もよく伴奏楽器として使われており、バイオリンやbanduria(マンドリンに似たスペイン渡来の楽器)も伴奏楽器として知られていますが、レコーディングに当たってはほとんどがシンプルな打楽器とギター1本または2本のみで歌の伴奏をしています。
HaranaとKundimanは共に19世紀から20世紀前半にかけてフィリピン国内でポピュラーになり、現在も名前が挙がるシンガーや名曲が生まれていますが、次第にKundimanの方がポピュラリティを獲得していくようになります。
その背景を考えてみると・・・
・Haranaの特徴的な要素がKundimanにも含まれていたこと((男性から女性への)ラブソングであること、スローなテンポの曲が中心となっていることなど)
・フィリピンという国がマニラ(タガログ地域)を中心としてまとまり発展していくに連れ、各地域の言葉で語られるHaranaよりもタガログ語で歌われる曲が多いKundimanのほうが広い範囲に流布していった
・男女間の愛だけでなく自然や祖国への想いや愛情も歌にしていたKundimanはスペインやアメリカからの独立闘争やその動乱期に指導者らによりプロパガンダソングとして用いられ(Bayan Koなど)、より多くの市民の心に訴えることになった
などが主な理由ではないかと考えられます。
1950年代以降、ロックンロールをはじめとした若者向けの大衆音楽が輸入され、フィリピン国内の音楽産業もそういった新しいスタイルの音楽が中心となっていく中でHaraha/Kundimanは次第にフィリピンポップスのメインストリームからは外れていってしまいます。
しかし、フィリピンのポピュラーミュージックが「OPM」と呼ばれるようになった今でも、若者に大人気のバンド「Parokya Ni Edgar」がシングル「Harana」をリリースしたり、2010年に解散した人気バンド「Hale」が彼らのラストアルバムのタイトルを「Kundiman」と名づけたり、人気ベテラン俳優Robin padillaが2011年にリリースしたアルバムのタイトルも「Harana」とするなどいたるところでこの二つの音楽の名前を目にすることができます。
言葉だけでなく、音楽的にも、非常に哀愁を帯びたスローバラードが新曲としてレコーディングされたり、現在フィリピンで度々開催されているアマチュアシンガーのコンテストにKundimanを持ち歌として出場する新人シンガーもいます。
1970年代から80年代にかけて活躍したフィリピン人コンポーザーWilly CruzやGeorge CansecoらはKundimanのもつドラマティックでスケールの大きなスタイルに影響されたと思われる名曲を数多く世に送り出していますし、その後輩に当たるVehnee Saturnoもしかり。80年代以降に作られた名バラードもこの流れを汲んだものを数多く耳にすることが出来ます。
このように、この二つの伝統音楽は単に歴史上の事実としてだけでなく、現代のフィリピンの若者たちの間にも自国の(全盛期は過ぎ去ったにせよ)ポピュラーミュージックの一つとして認識されているようです。
■Kundimanの名曲「Bayan Ko」について
Bayan Koという曲は1986年Freddie Aguilarによって歌われ、コラソン・アキノのピープルパワー革命(EDSA(エドサ)革命)のフィリピン国民のテーマソングの一つとして有名になりましたが、この曲のオリジナルはずっと古く20世紀初頭、フィリピンに対する植民地支配の宗主国がスペインからアメリカに取って代わった時期に遡ります。
この曲はフィリピン人劇作家Severino Reyesの歌劇(Zarzuela)「Walang Sugat」の中の1曲としてフィリピンの将軍José Alejandrinoがスペイン語で書いたもので、歌劇自体の内容も被植民地支配の苦悩と独立への渇望を題材としたものでした。この曲はアメリカの植民地支配に抵抗するプロパガンダとしてポピュラーになっていきます。
その後詩人のJosé Corazón de Jesúsによって1929年にタガログ語の歌詞がつけられました。アメリカからの独立闘争の中でスペイン語からタガログ語へと歌詞が変わっていったものと思われます。
この曲は、後に「Lupang Hinirang」がフィリピンの国歌として正式に制定されてからも「もう一つの国歌」「隠れた国歌」として
長く歌い継がれ、フィリピン伝統のフォークソングとしてひろくフィリピン国民の心に刻まれただけでなく、その歌詞の内容から多くの指導者達により「外部からの圧力への抵抗歌」として盛んに用いられていました。※フィリピンの国歌(National Anthem)「Lupang Hinirang」は1898年にJulián Felipeによってメロディが書かれて国歌に制定、当初は歌詞は無くメロディだけでしたが、1899年にJosé Palmaのスペイン語の詩「Filipinas」から引用する形で歌詞がつけられました。その後1940年代に次第にタガログ語に訳されて歌われるようになり、1956年ごろタガログ語の歌詞がほぼ定まった形となり、1960年代、その歌詞に最終的な修正を加えたものが現在の「Lupang Hinirang」となっています。
■ Ruben Tagalog – The King of Kundiman –
King of Kundimanと呼ばれたRuben Tagalogはそのファミリーネームから受けるイメージとは違い、ビサヤ地方はパナイ島の州都Iloiloで1922年に生まれています。幼いころから地元の波止場などで友人と共に歌っていた彼ですが、1937年、二人の姉妹と共にマニラへ。3人はカローリングというスタイルで家から家へと歌い歩いているうちに、当時舞台俳優としてショービズ界活躍していたLou Salvadorに見出され、「the Wanderers Trio」というグループとしてthe Plaza Theaterなどの劇場やラジオ番組に出演するようになります。
Rubenはソロに転向後、いっそうその才能が開花し、「Harana Ni Ruben」という自身のラジオ番組(1940年代)を持つに至り、更には当時(1950年代)のトップエンターテイナーがステージに立っていた「The Clover Theater」に出演します。
その情感の込もったバリトンヴォイスは大人気となり、1955年から1970年代にかけてKundimanレーベル「Villar records」に12枚のアルバムをレコーディング、当時の人気女性シンガーであったConchng Rosal, Sylvia la Torre, Carmen Camacho そしてCely Bautistaらとのデュエットレコーディングも残しています。
Rubenは80年代にFreddie AguilarによってリバイバルヒットするKundimanソングBayan Koを始めてレコーディングしたことで知られているほか、ビサヤ地方のクリスマスソング「Kasadya Ning Taknaa」のタガログ語バージョン「Ang Pasko Ay Sumapit」をレコーディング、
また同じビサヤ出身の女性シンガーNora Hermosaと共にビサヤ地方のKundimanソングをレコーディングしたアルバムもリリースしています。
そして1950年代後半には現在も現役で活動しているボーカルグループ「Mabuhay Singers」のオリジナルメンバーとしても活躍しました。
※Ruben Tagalogの才能を見出し、世に送り出したタレントマネージャー(当時の雰囲気を感じやすい言葉を使うならば「興行師」と呼ぶほうが適切かもしれません)Lou Salvadorは元々はバスケットボールのスター選手として1920年代に活躍していました。1925年頃から姉と共にエンターテインメントの道へと進み、やがてタレントのマネージメント業を生業とするようになります。
Louは現在大人気の若手美人女優Maja Salvadorの祖父にあたります。
■ Sylvia La Torre – The Queen of Kundiman –
クイーンオブクンディマン(The Queen of Kundiman / Renya ng Kundiman)と呼ばれた女性シンガーSylvia La Torreは1933年、女性ソプラノシンガーLeonora Reyesと映画監督Olive La Torreとの間に生まれました。
Sylviaはテレビ・ラジオで活躍する女性タレントの第一人者として、また、元祖ポップディーヴァ、元祖ジュークボックスクイーンなどとして、約30年間フィリピンショービズ界に君臨、美しいソプラノボイスを持つシンガーとしてはもちろん、テレビやラジオではおせっかいな姑役などコミカルなキャラクターもこなし、観客を魅了しました。
彼女は1938年にマニラで開催されたアマチュアコンテストからそのキャリアをスタートさせます。
第二次大戦中は、当時最も人気のあった劇場の一つ「Life Theater」に出演、
終戦後の1948年にはジャズシンガーのKaty de la Cruzや、ダンサーとして人気を博していたBayani Casimiroら当時のビッグスターと共に、「Manila Grand Opera House」に出演します。
Sylviaは終戦後サント・トーマス大学(University of Santo Tomas) で音楽を学んだ後、1950年にBataan RecordsからデビューシングルSi Petite Mon Amourをレコーディングします。その後Villar Recordsに移籍、そこでSylviaは約400曲をレコーディング、Kundimanからノヴェルティソングまで多彩なジャンルをこなしていました。
それらは”今ではポップソングと呼ばれているジャンルの音楽(Sylviaのコメントより)”として親しまれていました。Sylviaはまた、父親がSampaguita Picturesの専属映画監督だったこともあり、早くから映画に出演、1941年の初出演作Ang maestraから2001年のGMAテレビのドラマBiglang sibol, bayang impasibolまで計17本に出演しています。
Sylviaは父の元、Sampaguita Picturesで数本の映画に出演しますが、主役を演じることは無く、彼女が主役として活躍するのは1950年代にLVN Picturesに移籍してからのことです。
代表作としては Puro utos, puro utos (1959)、 Yantok mindoro (1960) 、 Oh sendang (1961) (いずれもLVN Picturesの作品)があります。
Sylviaは現在夫と共にロサンゼルスに在住しており、現在アメリカで活躍している女優・モデルのAnna Maria Perez de Tagle(アンナ・マリア・ペレス・デ・タグレ)はSylviaの孫にあたります。
■ Conching Rosal
Conching Rosalは1926年生まれ、6歳の頃には教会でソロで歌い始めます。マニラのサント・トーマス大学(University of Santo Tomas)ではSylvia La Torreと同級生、Sylviaと一緒に声楽を学びますが、彼女は卒業後もクラシックの声楽のレッスンを受け、ソプラノシンガーとしても頭角を現しました。現在ではSylviaと並びKundimanを代表する女性シンガーの一人として知られています。
■ Cely Bautista
Cely Bautistaは1939年生まれ、7歳の時にはステージに立って歌を披露するようになります。15歳のときに後に彼女の夫となる俳優Eddie San Joseが司会をしていたラジオ番組で紹介されレギュラー出演するようになります。その後Ruben Tagalogの番組「Harana」にも出演します。
Celyは1950年代から1970年代までに当時の花形レコードレーベルVillar recordsの専属シンガーとして12枚のアルバムをリリース、Dahil Sa Iyo, Maalaala Mo Kayaなどのヒット曲があるほか、ボーカルグループMabuhay Singersのメンバーとしても活躍しています。
彼女はSylvia La Torreと共にRenya ng Kundiman(Queen Of Kundiman)と呼ばれています。
■ Ric Manrique, Jr.
Ric Manrique, Jr.は1941年生まれと、他のKundimanシンガーと比べて少し若いですが、1958年に結成されたMabuhay SingersのオリジナルメンバーとしてRuben Tagalogらと名を連ねています。彼はRubenと共にHari Ng Kundiman (King Of Kundiman)の一人として知られています。
Ricは1960年代に入るとソロとして活動、映画の主題歌を歌って人気を博します。その代表曲のひとつにAng Daigdig Ko’y Ikaw (Pilita Corralesとのデュエット、Fernando Poe, Jr. と Susan Rocesが主演の同名映画のテーマソングです)があります。
■ Carmen Soriano
Carmen Sorianoは1960年代から1970年代にかけて活躍したシンガーで、女優としてショービズ界にデビュー、シンガーとしては、初期のころはKundimanを歌っていましたが次第にポピュラーソングも歌うようになりました。
Carmenはその美貌からマルコス元大統領とのロマンスが噂され、当時のゴシップ記事を賑わしたことでも知られています。
画像は1957年、Miss Manilaに輝いたときのものです。
■Carmen Camacho
Carmen Camachoは1939年生まれ、1950年代に女性ボーカルグループ「Tres Rosas」の一員としてシンガーのキャリアをスタートさせています。1958年に所属していたVillar recordsが男性ボーカル&インストゥルメンタルグループ「Lovers Trio」とTres Rosasを合体させ新しいグループ「Mabuhay Singers」を結成すると、そのオリジナルメンバーの一人として活躍します。
1960年代にソロシンガーとして独立後もVillar RecordsからKundimanソングをレコーディングしたアルバムをリリース、Cely Bautistaらと共にKundimanを代表する女性シンガーとしてその名を残しています。
■ Mabuhay Singers – 現在も現役で活躍しているKundimanを代表するボーカルグループ
Mabuhay Singersは1958年に結成、現在も活動している息の長いボーカルグループです。最初はVillar recordsに在籍していた二つのグループが核となって結成されました。
そのひとつは女性ボーカルトリオのThe Tres Rosasで、メンバーにはRuben TagalogとデュエットアルバムをレコーディングするNora Hermosaがいます。もうひとつは男性3人のインストゥルメンタルバンドthe Lovers Trioで、彼らがMabuhay Singersの楽器担当となります。この6人にソロボーカリストを加えて出来上がったのがMabuhay Singersです(つまりMabuhay Singersは純粋なボーカルグループではなく、ボーカル&インストゥルメンタルグループです)。
50年以上の歴史の中、Ruben Tagalog, Cely Bautista, Ric Manrique Jr.などソロとしてKundimanを代表するシンガーとなるボーカリストが多数在籍、またDon Davidら後にフィリピンのジャズ界の大御所となるシンガーも在籍していました。
Mabuhay Singersは、グループ名義のアルバムだけでも100タイトル以上がリリースされ、タガログ語、ビサヤ語などフィリピン国内の様々な言語による楽曲はもちろん、英語・スペイン語の楽曲もレコーディングしています。
Kundiman全盛期のレコードレーベル「Villar records」
Villar recordsは1950年にManuel P. Villar Sr.氏によって設立されたレコードレーベルで、Kundimanだけでなくフォークミュージック、ビサヤ地方でスペイン統治時代に盛んだったBalitawと呼ばれる大衆音楽や、各地のラブソング・バラードソングなど様々なジャンルのフィリピンミュージックをレコーディングしています。また、フィリピンの国歌「Lupang Hinirang」を最初にレコードに吹き込んだレーベルとしても知られています。
Villar recordsはRuben Tagalog, Sylvia La Torre, Mabuhay Singers, Cely BautistaらKundimanを代表するシンガーばかりでなく、Bobby GonzalesやPilita Corrales, Nora Aunorなどポップ色の強いシンガーから、後にフィリピンのミュージックシーンに登場するSampaguitaやManila soundを代表するバンドHotdog、80年代に一世を風靡するシンガーRico J Punoら70~80年代のフィリピンポップスを聴く上で欠かせない重要なアーティストが多く所属したレーベルでもありました。現在Villar recordsはマニラと米国ロサンゼルスに拠点を構えてフィリピン各地のエスニックなサウンドや50~70年代のポピュラーミュージックを配給しています。
創設者のVillar氏が初代の代表者を努めたフィリピンの横断的音楽出版団体「PRIA(the Record Industry Association of the Philippines)」は、現在も「PARI」(Philippine Association of the Record Industry)と呼称を変更して組織運営されています。
その他にもフィリピンではスペイン統治時代から市民の間で親しまれている音楽やフォークダンスがあります。
■ Tinikling
Tiniklingはフィリピンの伝統的なダンスで、2本の竹の棒を使ったいわゆる「バンブーダンス」のこと。
由来はスペイン統治時代のビサヤ地方(レイテ島など)で、稲作農民が作った竹製の罠や木の枝をピョンピョンと身軽に飛び回る鳥の名前から来ており、
二人がかりで二本の竹を動かしながら巧みにその間や側をステップを踏みつつ踊るもので、正式には古くから伝わる民族衣装(女性は balintawakやpatadyongと呼ばれる丈の長いドレス、男性はbarong tagalogと呼ばれる麻製のシャツ)を身に着けて行われます。
■ Cariñosa
Cariñosa(カリニョーサ)も古くスペイン統治時代から親しまれてきたフォークダンスで、スペインの音楽やダンスの影響を色濃く受けたその発祥はパナイ島(ビサヤ地方)だと言われています。
ハンカチや扇子を持って踊る独特のフォークダンスで、女性はMaria Clara gown, 男性はBarong Tagalogを着て踊るのが伝統とされています。
Cariñosaは広くフィリピン国内に広まったようでビコール地方やミンダナオ島でもそれぞれの特徴を持ったCariñosaが踊られていたようです。
■ Rondalla
Rondalla (ロンダーリア・ロンダーラ)はマンドリンや12弦ギターのアンサンブルで演奏されるスペイン発祥のフォークソングで、フィリピンでも19世紀に盛んに演奏されていました。
楽器はBandurria、Laúdなどマンドリンの一種とされる弦楽器から12弦ギターそっくりのOctavinaと呼ばれるフィリピン独特の楽器(Octavinaは14弦)などが使用されていました。
1950年代以降フィリピンのポピュラーミュージックはアメリカンポップスの流れを汲んだラブソングが主流となり、そのことが「欧米の模倣」「民族的独自性の欠如」など否定的な意見の根拠となっている面もありますが、このころ(20世紀以前)の歴史を紐解き、それを踏まえたうえで現在のフィリピンポップスを聴いてみると、「OPM」が単にロックンロール以降のマスプロダクト化されたアメリカ音楽に安易に触発されて出来たものではなく、その時代時代に最も勢いのあった勢力(スペイン・アメリカ)の文化を巧みに吸収・消化しながら長い年月をかけて育んできた「フィリピン独自」の大衆文化であることがわかります。