フィリピンポピュラーミュージックの変遷 まえがき
フィリピンのポップスをスペイン植民地時代まで遡り、そこから現在に至る軌跡を辿る「フィリピンポピュラーミュージックの変遷」のまえがきです。
随時修正・加筆していきます。
最終更新:2017年9月26日
東南アジアに位置するフィリピン共和国(Republika Ng Pilipinas / Republic of the Philippines)は16世紀半ばからスペインの植民地支配を受け、20世紀に入ると今度はアメリカの植民地となりました。その時代時代の最も勢いのある国と直接関係を持ってきたフィリピンは、占領・支配への抵抗という苦しい歴史も持っていますが、早くからヨーロッパ・南米~北米の文化や生活様式など異なる背景を持った人々と密接に交流する歴史を歩んできたとも言えるかと思います。言い換えれば、数百年も前からグローバル化の波が訪れていた国でもあるわけです。
そこで培われたフィリピンのポップス(OPM)も世界中のポピュラーミュージックの影響を色濃く受けたサウンドで、ロック・ポップス、ソウル・R&B、ジャズ、ボサノバなどアジアン・ミュージック(ワールド・ミュージック)以外のカテゴリーでご紹介するほうが適切と思われる作品も数多くリリースされています。また、優れた演奏家・シンガーを数多く輩出していることでも知らており、21世紀に入ってから、特にインターネットが普及してからは世界中からフィリピン人アーティストのパフォーマンスへ注目が集まるようになっています。
世界の舞台で活躍するフィリピン人アーティストたち
1989年にミュージカル「ミス・サイゴン」のヒロイン・初代キム役を演じトニー賞を受賞したフィリピン人シンガー レイア(レア)・サロンガ(Lea Salonga)は言うに及ばず、セリーヌ・ディオンやデイヴィッド・フォスター、オプラ・ウインフリーといった北米のトップアーティスト・セレブリティがわざわざ招聘、全米ネットのテレビやワールドツアーへのゲスト出演で引っ張りだことなったシャリース(Charice Penpengco / チャリース・ペンペンコ)や現在アメリカンロックバンド ジャーニーのリードボーカルとして活躍しているアーネル・ピネダ(Arnel Pineda )(Youtube)をはじめYoutubeの動画が海外でも話題となってメジャーデビューしたゼンディー・ローズ・テネレフェ(Zendee Rose Tenerefe)、地元フィリピンのFM局へ出演した時のライブ動画が世界中で注目されているモリセット・アモン(Morissette Amon)などなど・・・世界的にその歌唱力を認められているシンガーは枚挙にいとまがありません。
太平洋の西端に位置し人口も1億人前後と日本とよく似た条件の小さな島嶼国家フィリピンでなぜ世界中から評価されるシンガーが多く輩出されるのか。
世界中の音楽文化・大衆文化を取り入れはじめた16世紀から現代までのフィリピンポップスについて、彼らの才能を育み開花させたフィリピンという国の風土や市民生活のありようなども参照しながら解き明かしていこうと思います。
■ニアミス
私が一番最初に聴いたフィリピンの曲は多分フレディ・アギラのアナック(息子)だと思います。
この曲は1978年にフィリピンでリリースされ海外でも注目される世界的な大ヒットとなった曲で、日本ではフォークシンガーの加藤登紀子さんや杉田二郎さんらが日本語の歌詞をつけた「アナック(邦題:息子)(Youtube フレディアギラオリジナルバージョン)」をヒットさせたのでオリジナルではなかったですが、日本のフォークとはまた違った深い物悲しさを持っている曲だなぁという印象でした。
そして確か高校生の頃、マリーンというフィリピンの女性シンガーが日本の芸能界にデビューしました。彼女は当時日本で流行っていたフュージョンサウンドと歌謡曲をミックスしたような「マジック(YouTube)」という曲を大ヒットさせました。この曲は英語の歌詞がついていて、サウンドもそれまでの歌謡曲とは一味違うダンサブルで楽器の伴奏も特徴的なイメージでしたのでアルバムを購入したと記憶しています。
やがてディスコに遊びにいくようになり、生バンドが演奏しているところに出くわします。浅黒くちょっと小柄なメンバー構成の彼らはいわゆる「フィリピンバンド」で日本にミュージシャンとして来日してディスコやナイトクラブ、ホテルのピアノラウンジなどで定期演奏をしていたようです。
しかしフレディ・アギラやマリーン、ディスコのバンドマンたちがフィリピン人であることはなんとなくは知っていましたが、その時も「ふーん、そうなんだ」という程度でそこから彼らの母国フィリピンの音楽にのめり込んでいくことはありませんでした。
フィリピンの音楽に身も心もハマっている今にして思えばなんともったいないというところなのですが・・・。
■フィリピンポップスとの出会い
私がフィリピンの音楽と出会ったのは2000年頃、観光で偶然訪れたマニラでした。
宿泊したマニラのマラテという地区にある中級クラスのホテルには一階に小さなレストランがあり、そこで朝食を取ることができました。せっかくなのでホテルの外で地元の店で朝食をとってみたかったのですが、いきなり一人で朝の腹ごしらえに街に出るというのは気後れしてしまい、他の宿泊客に混じりホテルのレストランで済ませることに。
そこで流れていたBGMは現地のFM放送を流しているらしくエアプレイされているのはアメリカのヒットチャートに登っているような曲がほとんど、フィリピン語(タガログ語)の曲はごくたまに聴ける程度でした。フィリピン語の曲は全くわかりませんでしたがアメリカンポップスなら子供の頃から洋楽が好きで日本でレコードばかり買っていた私はどれも耳馴染みのあるものばかり。フィリピンでもこういった場所のBGMは同じような感じなんだなと思ったのですが、よく聴いてみるとアレンジや歌っているシンガーがちょっと私の知っているのとは違うような・・・しかしその時は、震災のゴタゴタで以前ほどCDを買わなくなっていたので知らない間にアメリカで新しいシンガーがデビューしたのだろう・・・くらいに思っていました。
特に決まった目的や予定もない旅行でしたし、物価が日本の1/3〜1/5のフィリピンなら地元のCDショップに行けばホテルのレストランで聴いた最新のシンガーのアルバムを安く買えるのでは?とホテルのすぐ近くにあったショッピングモールへ。スラムなど貧困問題が日本でも話題となるフィリピンでしたがモールの中は整然としていてマクドナルドやスターバックス、高級ブランドのテナントも出店していて日本のデパートとあまり変わらないくらい。派手なイルミネーションのおかげでCDショップもすぐに見つけることができました。
CDの棚を一通り見ましたが思っている楽曲を収録しているアルバムが見つからないのでショップの店員さんに曲名を伝えるとすぐにCDの棚から店員さんが持ってきてくれましたが、それは意外なことにフィリピン人女性シンガーのアルバムでした。
ショップの店員さんに私が聴いたのは多分アメリカの新人シンガーのアルバムでフィリピン人の作品ではないと思うと伝えると、その店員さんは最近ラジオで聴いたのなら絶対これに間違いない!なんなら試聴してみる?とのことなのでそれじゃ聴かせてもらおうとCDプレイヤーに繋いだヘッドセットを装着・・・出てきた音はなんとさっきホテルのカフェで聴いたバージョンに間違いないではないですか!
へーっこれフィリピン人が歌ってるんだ!
フィリピン人がこれほどまでに歌が上手いとは知らなかったため少々驚きましたがとりあえずその曲が収録されているアルバムとそのシンガーの他のアルバムもついでに何枚か購入しました。
部屋にはCDプレイヤーはなく、フィリピンでCDを買う予定もなかったのでもちろんポータブルCDプレイヤーなど持ってきているはずもなく、買ったばかりのCDは日本へ帰るまでお預けとなりましたが、次の日も同じカフェで朝食を摂っているとまたしてもBGMで曲は知っているがシンガーは知らないという(私にとっては)ニューバージョンが。
昨日と同じCDショップへ行き、昨日と同じくフィリピン人シンガーのアルバムを購入したのでありました。
面白くなってきた私はレストランやタクシーの中で聴いた「バージョン違い」のヒット曲を覚えておき昼間の観光が終わったらメモを片手にCDショップへという日課をこなして帰国の途についたのでありました。
これが私にとってのフィリピンのポップスとの出会いであり、フィリピンのポップスにハマるそもそものきっかけとなりました。
音楽に関して初のフィリピン渡航中にもう一つ驚いたことは、街中で生演奏を見る機会が圧倒的に多く、しかも腕利きのローカルミュージシャンが至る所でその腕前を披露していたことです。
繁華街では夜になるとレストランや若者向けのディスコ・ナイトクラブや怪しげな飲み屋も出現するマニラ、日本のそれと少し違うところはその半分以上が店のエンターテインメントとして生のバンドやシンガーがステージで音楽を奏でるというスタイルをとっているということでした。
1980年代の半ばくらいから日本では急速に生バンドをフィーチャーしたディスコやナイトクラブは減って行き、専らDJがレコードをかけるというのが主流になっていたので、そうか、途上国だからまだまだ日本より遅れてるんだなぁと思うと同時に、いかにも場末といった風情の寂れたレストランからも素晴らしい歌声が聴こえてきたのにたいそう驚かされました。
マニラ湾の夕日とフィリピンポップス
マニラは海沿いの街で繁華街から歩いてすぐのところに夕日で有名な「マニラ湾」が横たわっています。湾沿いの遊歩道は夜になると日本の夏の海水浴場を彩る「海の家」さながらに仮設のテラスレストランがオープンします。昼間は隅の方にしまってある椅子やテーブルを岸壁に沿うように広げ、潮風に吹かれながら壮大な夕日を見ながらの食事は格別のものがありますが、どのレストランも小さなステージを組んでバンドが演奏できるように設えてあります。オープンテラスなのでそこで食事をする人だけでなく道ゆく人も彼らの演奏が聴けますし、店と店との中間にいると両方の演奏が聴こえるのでそれほど正式なライブレストランというわけではありません。出演しているバンドもステージ衣装と言えるようなものをまとっているわけではなく学生のアマチュアバンドさながら。しかし彼らの奏でるサウンドは、もしかして有名なのかもと訳知らぬ旅行者に思わせるのには十分な技量を持っています。
マニラ湾沿いのテラスレストランは基本的にミュージックチャージやテーブルチャージを要求されることはないのでとても気軽に生演奏を楽しめます。
■フィリピンの音楽やミュージシャン・フィリピンという国への私の思い
「フィリピンポピュラーミュージックの変遷」を文章にしてみようと思ったきっかけは、冒頭でも書いた通り、日本と人口や面積、位置する場所的によく似た部分のある小さな島国なのになぜ世界的に高く評価されるシンガーを多く輩出するのか、そこにはどんな秘密が隠されているのか、ということに非常に興味を惹かれたからであります。
経済的に恵まれているわけではないフィリピンでは学校にも十分に行けない若者たちが多いことはよく知られていますが、同時に教育機関も決して(規模的に・数的に)充実しているわけではありません。学校で音楽を専門的に学んだり著名な音楽家に師事して薫陶を仰ぐことができる経済力を持ったフィリピン人の数は日本のそれよりもはるかに少ないのが現状ですし、自力で巷の音楽スクールに通える人も限られています。
では一体彼らはどのようにしてその歌唱力や演奏力を身につけたのでしょうか?
スクールに通うのでなければ日々の生活の中で身につける他ありません。それもフィリピン全国からおびただしい数の優秀な音楽家が輩出されることを考えれば限られた地域だけが音楽家に適した特定の条件を持っているのではなく、もっとフィリピンという国自体が普遍的に持っているものがあるはず・・・。
それを知ることができれば私自身も大好きな音楽にもう一歩近づけるのでは・・・大げさにいうと私自身の「取るに足らない日常」がもっと華やいだものになるのでは・・・という希望的観測も手伝って。
インターネットの普及により、これまで余程の好事家が発見して一本釣りされたごく少数にだけスポットが当たっていたフィリピンのミュージシャンたちは一斉に世界中のリスナーに自分たちのパフォーマンスを直接伝えるようになり、少なからぬ数のアーティストが高い評価を受けるようになりました。まるで開かずの鍵で永らく閉ざされていた宝箱の蓋がポンっと開いて中から目も鮮やかな財宝が我々の目の前に飛び出してくるように。フィリピンの首都マニラは「東洋の真珠」と呼ばれていましたが、フィリピンは現在も素晴らしい輝きを放つ宝石のようなシンガーを生み出し続けています。
このページではそれらの輝くフィリピン人ミュージシャンを一つ一つ吟味しながらそれを長年にわたって守り育ててきた宝箱であるフィリピンという国や人々のことも探っていきたいと思っています。
記事の中で紹介するフィリピンの音楽に触れていただき、その先にあるフィリピンの歴史や文化にも興味を持っていただけましたら望外の喜びです。
ガラパゴス化していないフィリピンポップス
東南アジアをはじめマイナーでよく知られていない地域の音楽について発信しようとする時、しばしばこれまで知られていた音楽とまったく違うもの、聞いたことのない音階やサウンド、歌唱スタイルを期待されることがありますが、私がここで解き明かそうとしているフィリピンのポップスはそれとは正反対、私たちが普段からよく耳にしている音楽に限りなく近いものです。マニアックでちょっと近寄りがたい音楽との遭遇をお望みの方には物足りないかもしれません。
特にフィリピンの音楽は「民族的独自性がない」と言われます。
確かにアメリカンポップスの影響を色濃く受けた今のフィリピンポップスは欧米文化とは趣を全く異にする印象のサウンドではありませんし、民族楽器を使ったり独特の音階を用いたメロディがヒットチャートに登ってくることもありません。予備知識なしで音だけ聴くとアメリカのシンガーかな?と思うことも。
このことをマイナス面として捉えるとそのような感想になると思いますが、逆に考えるとそれだけ世界と同化していると言えると思います。冒頭でも書きましたがフィリピンは16世紀から超大国の直接の支配を受けており、早くからグローバル化が進んだ国です。異文化を背景に持つ人々と長い間交流してきており垣根も低い。19世紀以前にスペインが持ち込んだ南米歌謡も、20世紀にアメリカが持ち込んだロック・ポップスを自分たち(フィリピン)とは隔絶した別の世界の大衆文化として捉えるのではなくすぐそばにあるもののように自然に自分たちの中に取り込んでいった結果なのではと思います。このページは、「こんな音楽知らなかったでしょう!?」「新種の音楽発見しましたのでお見せしましょう!」というスタンスでフィリピンの音楽を紹介するものではありなく、フィリピンのシンガー達がすでに出来上がっているメジャーなジャンルの音楽に飛び込んで真っ向勝負をかけ、時には欧米のメジャーシンガー同様の評価を得ている姿の清々しさや痛快さを伝えようとしています。
アジアと世界がボーダレスなんだということを音楽を通じて表現しているフィリピン人のパフォーマンスを目一杯お届けできればと思っています。
(アメリカンロックバンド ジャーニーのリードボーカルとしてマニラのステージに立つアーネル・ピネダ)
(2008年9月、セリーヌ・ディオンのコンサートに詰めかけた満員の観客の前でパフォーマンスするシャリース)フィリピンはこのように欧米の影響を色濃く受けたポップスがとても盛んな国ですが、決して今のフィリピンの若者が伝統文化を古臭くダサいものとか時代遅れのものと軽んじたり忘れ去ろうとしているわけではありません。各地の民族的なフェスティバルでは老若男女関係なく特徴のある衣装と音楽で盛大に盛り上がります。それは伝統文化を今の実生活とは別のものという特別な意識で捉えているのではなく、今最新の音楽が大音量で流れるライブハウスやフェスで盛り上がるのと収穫や宗教に基づいた地元の祭りとの間に一つの楽しむべき共通項を見出しているのではと思うのです。