Bobby Gonzales■ Bobby Gonzales
この時代を代表するスターシンガーの一人として現在も取り上げられることの多いのが「Bobby Gonzales」です。
彼は最初に出稼ぎ労働者(OFW:Overseas Filipino Worker)として海外で活動したミュージシャンの草分け的存在として知られていて、ラスベガス、アトランティックシティなどでも公演を行い、フィリピン人アーティストを「世界のエンターテイナー」として知らしめる重要な役割を演じました。(Bobbyはマニラを訪れていた人気女優Shirley MacLaineのスポンサーに招待される形で渡米、その後Katy de la Cruz, Diomedes Maturan, Baby Aguilar, the Reycard Duetら当時のフィリピンのトップスターらがあいつでラスベガスで公演を行っています。)
彼の作品を聴いていると、ジャンプナンバーはロックンロールに、バラードナンバーはKundimanに通じるもので、過渡期の混迷の中で活躍していたアーティストの特徴を見出すことができます。
clover theater彼が出演していたマニラのClover Theaterは映画館として建てられたようですが、むしろフィリピン国内の指折りのパフォーマーのエンターテインメントショーが行われていることで知られるようになり、Bobby Gonzalesはもちろん、DolphyやPugo and Tugo、Katy dela Cruzら当時のトップスターの公演の場となりました。
そこでBobby Gonzalesは25~40曲のステージを1日3回、毎日(週7日)こなしていたようで、その人気振りがうかがえます。
Eddie Mesaこの時期、Bobby Gonzalesと共に人気を博していたのがEddie Mesa(シンガー・俳優)で、その歌唱スタイルから「フィリピンのエルビスプレスリー(Elvis Presley of the Philippines)と呼ばれ、ティーンエージャーのアイドル的存在となっていました。彼は現在牧師としてアメリカに在住しています。彼の本名はEduardo Eigenmannといい、現在(2014年)フィリピンの映画・テレビドラマで活躍している人気女優Andi Eigenmannは彼の孫です。
Jose Mari Chan■ Jose Mari Chan
コンポーザーとして、アレンジャーとして海外でも評価されているJose Mari Chanは1966年にABS-CBNのテレビショーへの出演がショービズ界へのデビューとなります。
1967年にファーストシングル ‘Afterglow’をレコーディング、Cliff Richardを彷彿させるスムーズな歌声と美しいメロディのこの曲はビートルズやビーチボーイズがフィリピン国内で全盛の人気を誇っている中、それらを押しのけるビッグヒットとなります。1969年にはデビューアルバム’Deep in My Heart’をリリース。1973年には来日も果たしていますが、1975年アメリカへ移住してしまいます。
アメリカ移住までの数年間で20曲以上の映画・ドラマのテーマソングをヒットさせたJose Mari Chanは渡米中も音楽活動を行っていましたが、1986年に帰国後は更に精力的に活動を再開。大ヒット曲’Please Be Careful With My Heart’や1990年にはリリース後20年以上経過した今でも毎年シーズンになるとアルバムトップ10ヒットに顔を出すモンスターヒットアルバム’Christmas in Our Hearts’をリリース。現在もニューアルバムをリリースしています。
Jose Mari Chanは1945年、ビサヤ地方はパナイ島の都市Ilo Iloでサトウキビ農園を営む裕福な家に生まれました。1975年から1986年までのアメリカ移住は戒厳令発布に伴う政府による事業の接収が原因だったと考えられます。
■ Eddie Perengina ~日本とフィリピンを股にかけて活躍した伝説のシンガー Eddie PeregrinaEddie Peregrinaは1944年生まれで60年代後半から70年代にかけて活躍したシンガー。
歌唱スタイルは高音を得意とするハイテナーで、ランクシナトラなど、低音でスムーズに歌う歌手が人気だった当時フのフィリピンでは異色の存在だったようですが、現在のポップシーンのスタイルを見ると正に彼がイノベーターだったことがわかります。
Bobbyはフィリピンで「ジュークボックスキング(Jukebox King)」と呼ばれ、女優として人気だったNora Aunorらとラジオ番組でも共演、不動の人気を誇っていました。
彼は自身のバンド「The Blinkers」を率いて日本で活動していた時期があり、アルバムには数曲の日本の曲をレコーディングしています。
活動期間が短いEddie(1977年に事故死(32歳)ですが、国内でのヒットや多彩な活動歴を考えると日本とフィリピンを股にかけて活躍していたのではと思われます。
有名なレコーディングに「藤けいこ / 圭子の夢は夜開く」がありますが、この曲を英語・タガログ語の両方の歌詞をつけてレコーディングしているところを見るとよほどお気に入りだったのでしょう、このほかにも「ここに幸あり」など日本の古いヒット曲もレコーディングしています。
また、事故死の数年前はタガログ語曲をレコーディングしていますが、60年代後半のデビューから70年代中盤までは殆どが英語曲で、6/8拍子のロックバラード的な作品が中心となっていますのでここでもロカビリーなどアメリカのポピュラーミュージックやビートルズを皮切りにフィリピンにも浸透していった所謂「ブリティッシュインヴェイジョン」の影響を見て取れます。
■ Zero History ~やがてフィリピンロックシーンを代表する偉大なロックアイコンとなるバンドのメンバーが在籍 Zero History bandZero History bandは60年代後半に来日して活動していたブルースロックバンドで、サイケデリックムーブメントにも乗り、人気バンドの一つとして東京や横浜のディスコやナイトクラブで演奏していました。
やがてメンバーの一人でドラマー・ボーカルのJoey Smithが日本のロックギタリスト陳信輝(SHINKI CHEN)に誘われてバンドを結成、「SPEED, GLUE & SHINKI」名義でアルバムをリリースします。このアルバムは売り上げ的にはヒットとならず、Joeyの素行問題なども絡んでバンドは解散、程なくJoeyはフィリピンへ帰国します。そして一足早くフィリピンへ帰国していたZero HistoryのギタリストWally Gonzalesが組んでいたバンドに参加することになりますが、このバンドがやがてピノイロックの最も重要なアイコンバンドとなるとは本人達も予想していなかったことでしょう。
(※Zero History~その後のフィリピンでのメンバーの活躍については次章「フィリピンポピュラーミュージックの変遷3:ピノイロックの台頭とマルコス時代 1960~1970年代」に近日アップいたします。)
(Cynthia Law and) D’ Starlights(Cynthia Law and) D’ Starlightsは1960年代後半にシンガポールのクラブシーンで活躍したグループで、他のシンガポールのバンド同様、アメリカンポップスに影響を受けたサウンドでしたが、それまでギター・ベース・ドラムスといった編成のバンドが主流だったところにブラスセクションやキーボードを導入た新しいスタイルのバンドでした。
■元祖マルチタレント Ramon “RJ” Jacintoの登場 Ramon “RJ” Jacinto and the Riots (白のジャケットがRamon “RJ” Jacinto)
1950年代のロックンロールの誕生、1960年代に入りエレクトリック楽器の普及とそれに伴うVenturesなどのインストバンドの隆盛、そして英国勢の巻き返し(British Invension)など世界の音楽シーンの大きな動きを取り入れつつ自らの音楽性に磨きをかけていたフィリピンポピュラーミュージックシーンに、国内からも後のシーンの発展に大きく関与する人物 Ramon “RJ” Jacinto が登場します。
RJはマニラの名門Ateneo De Manila大学で経済学の学位を取得、その後同じくマニラ最古の伝統を誇るSto. Thomas大学で法学を学びますが、それと並行し、若干15歳(1960年)にしてミュージックプロモーション会社「RJ Enterprises」を立ち上げます。また、ミュージシャンとしても自身のバンド “RJ and the Riots”を結成、大学やローカルのナイトクラブなどで演奏活動をはじめます。
■ミュージシャン・ギタープレイヤー Ramon “RJ” Jacinto
RJ and the RiotsはAteneo De Manilaのクラスメートと共に結成したバンドで、1960年にAteneo De Manila高校のクリスマスパーティで初めてのライブパフォーマンスを行っています。
このバンドはベンチャーズスタイルのオリジナル曲を多く演奏、Weightlessというビッグヒットも放っています。
DZRJ 810 AM – Voice Of The Philippines「DZRJ」は再開後も地元アーティストの作品を積極的にオンエア、Maria Cafra、Juan Dela Cruz Band、Sampaguitaなど伝説のロックアイコンとなるアーティストも「DZRJ」の電波によってその音楽を広くフィリピンのリスナーに届けていました。
現在も「DZRJ」は名門AM局として存続、現在はリアルタイムニュースをメインに放送しています。